


大正15年。大分県で始めてのレストランが別府に生まれました。
そのレストランの名は「東洋軒」
茨城県出身の宮本四郎氏が、中華料理を学んだ台湾からの帰り体調を崩し別府で療養中、それを聞きつけた別府観光の父「油屋熊八」の勧めでオープンしたのがこの東洋軒と言われています。
この東洋軒は非常に繁盛したらしく、約3年後の昭和3年、オーナーの宮本四郎氏は、東京會舘や帝国ホテルや皇室で洋食のシェフをしていた"おい"の宮本卓治氏を別府に呼び寄せます。
こうして中華と洋食という舶来メニューに磨きをかけた「東洋軒」は、別府にやってくる世界中の人々を魅了し、繁栄を極めました。
東洋軒での宮本卓治氏は、常に新しい料理のアレンジを考えていました。その中で生まれたのが鶏肉を天ぷらにした「とり天」です。そのころ東洋軒に立ち寄った宮本家の親族の話では、そのころからとり天は「からし酢醤油」で食されていたようです。
この東洋軒の転機が訪れるのは第2次世界大戦後。
別府には米軍のキャンプが置かれ、たくさんのアメリカ軍人が別府にやってきました。
その士官級の将校たちのクラブとして、東洋軒は米軍に接収されたのでした。
米軍に接収され、たくさんの将校から愛された東洋軒でしたが、米軍から支給される金額が少なかったため、次第に経営的に苦しくなります。
本来、東洋軒を継ぐために関東からやってきた宮本卓治さんでしたが、東洋軒を出ざるを得なくなりました。
昭和27年頃のことです。

宮本卓治さんは、独立の道を選び「第二東洋軒」をオープン。
上級階級向けの「東洋軒」に対し、庶民にも東洋軒の味を味わって欲しいというコンセプトでオープンした「第二東洋軒」は、多くの別府の人々を魅了。別府を代表するレストランのひとつとして、名声を高めていきます。
また、東洋軒で生まれた「とり天」の味も、「第二東洋軒」で継承が続けられます。

宮本卓治さんと同じ頃、もう1人の東洋軒にいたシェフ山本さんが新たに「レストラン三ツ葉(現在の三ツ葉グリル)」を開店しました。
このレストランも庶民に東洋軒の味を味わってもらいたいという志で作られた店です。
この三ツ葉も頑固なまでに東洋軒の味にこだわりました。が、唯一、東洋軒とは違う料理がありました。それがとり天。
三ツ葉のシェフ山本さんは、とり天だけは東洋軒や第二東洋軒とは違う物を提供したいと独自で研究。その結果、とり天に甘味系タレをかけて提供するという、独特のとり天を編み出しました。
この甘味タレ系、言わば「三ツ葉スタイル」のとり天は、お孫さんにあたる三代目のシェフに引き継がれ、現在も創業時の味のまま楽しむことが出来ます。
この頃から、少しずつその店流のアレンジが加えられたとり天が作られるようになりました。
また、宮本卓治さんの去った後の東洋軒は、その後多くの料理人が入れ替わり、その時代時代の料理人によって変化しながらも、現在もとり天の提供が続いています。
東洋軒や第二東洋軒、レストラン三ツ葉で学んだ料理人が別府、そして大分県内各地で活躍するようになるにつれ、「とり天」は県内各地のレストランや食堂で提供されるようになります。

別府でとり天が誕生して約35年後の昭和37年、大分市で「レストランいこい」が開店。
大分市でもとり天文化が生まれます。
この「レストランいこい」から派生した、「キッチン丸山」や「いこい」といった店が、現在でもいこいの味を引き継いでいると言われています。
こうして「とり天」は別府市内でも300店舗以上、大分県内では数え切れないくらいのお店に広がり、大分県民の郷土食として愛されています。
別府のシェフ達の手で大切にはぐくまれてきた「とり天」の味を、ぜひ本場別府で楽しんでいただけると嬉しいです。
とり天Bメン一同

